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庭野仁司は幼いころから、兄の影響でアメリカ文化や、アメリカのファッションに興味がありました。その為、高校時代には、アルバイトをしたお金を持って、単身アメリカに向かい、現地で服を買い漁ってきました。高校では庭野仁司が着ている服が評判になり、服を売って欲しいという依頼が殺到しました。その為、庭野仁司はアメリカ旅行に行く場合には、現地で服を多めに購入し、帰国後、少し利益を上乗せして販売する事にしました。これが、現在、古着屋を経営するきっかけになりました。

庭野仁司がアメリカ文化に没頭した時は、日本でもジーンズやスニーカーブームで、現在では考えられない値段で取引されていました。庭野も一回のアメリカ旅行で、ジーンズを50本近く買ってくる事もあり、全て代々木公園などのフリーマーケットなどで売りさばき、次の旅行の費用や、買い付けの費用にしました。何度か繰り返していくうちに、フリーマーケットではなく、自分の店を持ちたいと思うようになりました。

そこで、高校を卒業後、すぐにアメリカに飛び、古着があると言われている場所を巡りました。時には民家にもお邪魔して、大量の古着を仕入れる事に成功しました。その古着を元に、地元に店を借りる事に成功しました。

郊外だった事もあり、店の家賃は9万円でした。内装も自分で行ったため、かかった費用は材料費程度で済みました。最悪9万円だったらバイトすれば払える金額ですので、不安はありませんでした。

店がオープンして一カ月、地元で開催されるフリーマーケットに出店し、商品にならないだろう古着を売りさばきました。この時に売りさばいた古着は、アメリカで欲しかった古着やスニーカーと抱き合わせで販売されていた物で、店に並べるつもりがないアイテムでした。その古着の購入者には、お店のフライヤーなども手渡しアピールも忘れませんでした。

店がオープンして半年、ジーンズのデッドストックが数十万で取引されるのが当たり前だった市場で、庭野仁司の古着屋は大ヒットしました。商品が次から次に売れ続け、一年は持つと思っていた在庫もすぐに無くなりました。その為、月の半分は海外での買い付けにあて、残り半分で買い付けた古着を販売するスタイルが定着していったそうです。

現在は、デッドストックのジーンズなどのブームは去りましたが、それでも庭野の仕入れるセンスの良い古着は人気があり、雑誌やテレビのスタイリストから依頼があり、貸し出すこともあり、店の運営は順調です。庭野の次の目標は、店の二階を改装して、気軽に入れるバルなどを開店することです。アメリカ文化には、ハンバーガーやコーラは欠かせません。店に置く年代もののジュークボックスなどはすでに準備されています。地元のアメカジ文化の立役者ともいわれる庭野ですが、現状に満足せず、次々と新しい顔を見せるお店が支持されている要因なのだと思います。

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